平成19年業績 学位

鑑定人および裁判官の刑事責任能力判断に関わる要因の研究
-裁判所等を通して実施した全国50事例の関係記録の分析より-

大澤 達哉

【背景と目的】
わが国では、刑事訴訟過程において被告人等の犯行時の精神状態等の解明が必要な場合、裁判官等の専門知識の不測を補うことを目的に、精神科医が鑑定人となって責任能力等に関する精神鑑定が実施される。しかし、その責任能力判断は個々の鑑定人の認識や経験に頼っているのが現状で、標準化された責任能力判断基準は存在しない。そのため、同一事例において複数の鑑定人間や鑑定人と裁判官の間で責任能力判断が一致しない場合があることが問題とされており、責任能力鑑定の質的向上を図り、その信頼性を確立する試みは、今日の司法精神医学領域において最も重要な研究課題の一つと考えられている。
今まで、責任能力判断の不一致が問題視されてはいても、その原因や対策についての研究はほとんどなされていない。従来の報告は、高度なプライバシーを含む精神鑑定事例の性質上、ほとんどが自験の鑑定例や自己の経験に基づくものであり、学派や党派性の問題などが指摘されるこの領域では客観性が担保されたものではなかった。そして、偏りの少ない多数の鑑定事例を検討した報告もごく一部にあるが、それらは原則非公開である起訴前の簡易鑑定例が多数を占め、責任能力の根拠がまったく明らかにされない検察官の判断と比較していたため、その過程を明らかにするものではなかった。さらに、裁判官の責任能力判断は、その根拠が司法側で唯一公開される点などから検討に値すると考えられるが、それを検討した報告はほとんど見られない。
責任能力判断という鑑定人の技術や作業に関する問題について論じるためには、まず客観的に偏りのない多数の鑑定書と裁判書から、その実態を知ることが重要である。そして、それに基づいた検討によって、初めて有効な対策を講ずることが出来ると考えられる。しかし、著者が知る限り、わが国では客観性に配慮した多数の裁判鑑定事例についての研究報告はみられない。
本研究の目的は、従来、入手が非常に困難とされていた自験例以外の鑑定書と、今までほとんど検討されたことのないそれに対応する裁判書を、可能な限り多く収集して、責任能力判断の実態を明らかにするとともに、その結果を検討することで、鑑定人の責任能力判断の標準化を目指し、その精度および信頼性の向上に寄与することである。
【対象と方法】
対象は、平成8年以降10年間にわが国の刑事訴訟過程において責任能力が争点となり、公判中に責任能力鑑定が行なわれ、既に刑が確定した事例のうち、最高裁が把握する事例の鑑定書と判決等の記載された裁判書である。そのうち、法律上の保管年限を過ぎていたものを除外した51例について、刑事訴訟法および刑事確定訴訟記録法に基づいて、各訴訟記録を保管する全国31地方検察庁を著者が調査した。最終的に、対象の条件を満たさなかった事例等を除外した50事例の鑑定書71例と裁判書64例を対象とした。
方法は、鑑定書と裁判書のいずれか一方または両方から、罪種、鑑定事項、診断、鑑定書採用または不採用の理由、責任能力判断、責任能力判断の根拠となる検討事項などを抽出した。なお、鑑定書と裁判書はいわゆる自由記述であり、抽出項目によっては一定の基準を定めて分類をした。これらについて、鑑定書別および事例別に、鑑定書と裁判書を比較、検討した。事例別の比較では、対象を同一の事例で複数回の精神鑑定が行なわれたもの(以下、複数鑑定例と略す)と一回のみ精神鑑定が行なわれたもの(以下、一回鑑定例と略す)に分けて検討した。また、「責任能力判断の根拠となる検討事項」の比較に関しては、鑑定書と裁判書の2群間でχ2検定を行ない、両側検定で5%未満を有意とした。統計解析にはSPSS Version 14.0 J for Windowsを用いた。
なお、本研究は東京医科歯科大学難治疾患研究所倫理審査委員会の承認を受けて実施された。
【結果】
鑑定人は診断のみならず責任能力判断においても裁判官の判断に影響を与える立場にあること、責任能力の基本概念として可知論的判断が全国に浸透していること、鑑定人と裁判官の責任能力判断一致率は56.3%であったことなどを明らかにした。また、責任能力判断の根拠となる検討事項を精神医学的因子(26項目)と犯行状況因子(16項目)に分類し、鑑定書と裁判書の2群間で比較した結果、精神医学的因子1因子と犯行状況因子12因子において、裁判官は鑑定人より検討する頻度が有意に高く、鑑定人は精神医学的因子に依拠して責任能力を判断する傾向にあった。また、犯行状況因子の他の2因子においては両者ともに検討した頻度が高かった。そして、鑑定人の責任能力判断の表現は多様で統一されていなかった。
【考察】
本研究の結果から、鑑定人は可知論的判断に基づいて責任能力を判断する際に、少なくとも、最終的な法律判断を行なう裁判官が重要視する「動機・原因・経緯に関するもの」、「計画性・準備に関するもの」、「方法・手段に関するもの」、「犯行に対する逡巡・躊躇に関するもの」、「通報・自首・申告に関するもの」、「隠滅・逃走・弁解に関するもの」、「違法性の認識」、「逮捕後の供述に関するもの」、ほかの被告人の個別具体的な行動と心理状態に関するものとして「犯行前行動」、「犯行中行動」、「犯行後行動」、「犯行前心理状態」、「犯行後心理状態」、「記憶障害」の14因子を検討事項として考慮し、精神医学的視点に基づいて評価する必要性を指摘した。また、鑑定人の責任能力判断の分類と表現の標準化のために、ドイツにおける5段階の分類 <①完全責任能力 ②限定責任能力の可能性は除外できない ③限定責任能力 ④責任無能力の可能性は除外できない ⑤責任無能力>は、わが国の刑事司法制度に導入されるべき有益な分類であることを指摘した。
【結論】
自験例以外を対象とすることが困難な現在の状況において、鑑定書のみならずそれに対応する裁判書を、統計解析が可能な数を全国規模で収集し、異なる領域の専門家である鑑定人と裁判官の責任能力判断過程を比較した本研究は、責任能力判断の標準化に寄与する、わが国で最初の報告として意義のあるものと考えられる。今後は本研究で得られた結果を実際の精神鑑定で用いることで、さらに知見を重ねる必要があると考えられる。責任能力は本来絶対的なものといわれる一方で、多分に刑事政策の影響を受ける相対的なものともいわれる。そのため、新しい法制度の下では責任能力判断の傾向に変化が見られる可能性があり、今後は新しい法制度である心神喪失者等医療観察法や裁判員制度との関連を検討することが望まれる。そして、さらに大規模な研究によって責任能力判断の全体像を詳細に把握することも必要である。それらのために、研究者が鑑定事例を検討できる体制の構築が今後の重要な課題であり、精神医学界だけではなく、裁判所や検察庁など関係機関の一層の理解と協力が必要であると考えられる。